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レス・ポール特集!〜現代音楽の基礎を築いたスーパープレイヤー〜


Gibson Les Paul Model。まだ日本ではテレビ放送も始まっていない時代の1952年(昭和27年)に発売され、以来1度生産終了しながらも現在に至るまで長年にわたる高い人気を保ち続けるモデルです。
世界で最も成功したシグネチャーモデルとして知られるこのギターが作られたのは、もちろんレス・ポールというプレイヤーがいたからこそです。なぜ、Gibsonはレス・ポールを選んだのか。そしてレス・ポールというギタリストはどんな人物なのか。
今回はそんなレス・ポールとLes Paul Modelを見ていきたいと思います。

レス・ポール、そしてLes Paul Modelに関しては、さまざま書籍などが世界で発売されています。今回はこれらの書籍などに書かれたことを元に書いていきたいと思います。記事内には一部写真などを用いて書いていきますが、まずは冒頭に、今回の記事の参考等として使う資料をまとめておきます。

参考資料一覧
レスポール大名鑑 1915〜1963
レスポール大名鑑 1968〜2009
ザ・ビューティ・オブ・ザ・バースト
レスポール・ブック
ギブソン レスポール コレクション
レス・ポール伝―世界は日の出を待っている〈上〉
レス・ポール伝―世界は日の出を待っている〈下〉
ヴィンテージ・ギター・ガイド<ギブソン編>
フェンダー大名鑑 1946-1970
レス・ポールの伝説 コレクターズ・エディション
Very Best Of Les Paul & Mary Ford

  • ギタリスト、レス・ポール

まずはレス・ポールというギタリストについて見てみます。日本において、レス・ポールというギタリストはもちろん評価はされていますが、まだそれほどよく知られているわけでもないと思います。ジャズギタリストの1人だった、Les Paul Modelを作った人。そんな感じでは知られていますが、実際はどんな評価を受けていたのか、どういう人だったのか、ということがそれほど知れ渡っている感じではないと思います。まずはそこから見ていきたいと思います。といっても、あまり細かく書くと本がかけてしまうほどなので、ぎゅっとまとめて載せたいと思います。
レス・ポール、本名レスター・ウィリアム・ポルファス(Lester William Polfuss)、まはたレスター・ウィリアム・ポルスフス(Lester William Polsfus)。ドイツ系移民の子孫で、アメリカ、ウィスコンシン州ウォーカシャで生まれました。生年は1915年(大正4年)6月9日。アメリカで自動車が浸透し始めた時代です。まだ馬車が多く走っていた時代、先見の明のある父により、自動車修理工場を営んでいました。後にハイヤー業も始めます。名字(Polfuss/Polsfus)が2つあるのは、「ポルスフス」の名が発音しづらいため、母親が「ポルファス」に改名したのですが、役所の手続きをしていなかったという話もあり、両方の書かれ方をします。
レス・ポールは、母親の鼻歌をすぐに覚えて歌えたことから、音楽的な才能を見いだした母親のイーブリンに溺愛され、百貨店で歌と踊りを披露するようなこともあったようです。貧しくはありませんでしたが、それほど円満でもなかった家庭において、かなり自由に育てられていました。後に自動演奏機能付ピアノも自宅に置かれるようになり、幼少の頃から音楽に触れて育っていました。
レス・ポールが最初に興味を持った楽器は、ハーモニカでした。8歳のころ自宅のそばで下水管工事に携わっていた溝掘り工夫が休み時間に吹いていたハーモニカに興味を持ち、聞きに行ったと言います。その際、吹いてみろと言われ「吹けない」といったレスに対し、その工夫は「やってみてだめだと分かるまで諦めるな」と言ったといいます。晩年のレス本人も語っていますが、その言葉は後に多くの障害に遭いながらも大成するレス・ポールの原動力となったということです。
また、レス・ポールには多くの物の仕組みを知りたがる癖がありました。例えば、「スイッチを押せば電球が灯る」ことを知るのではなく「スイッチを押せばなぜ電球が灯るのか」を知りたがったということです。そのため、自宅にある多くの物を分解したり、組み立てたりを繰り返します。当時の「自動演奏機能付ピアノ」は、「ピアノロール」を用いて自動演奏を行っていました。現在DAWなどでMIDIの演奏情報を入力する際のエディタで、ピアノロールエディタというのがありますが、その語源ですね。昔のアニメなんかで、パンチ穴の開いた長い紙がコンピュータから出てくる様子を見ることがありますが、そんな感じの紙です。レス・ポールはまず、そのピアノロールに追加の穴を開けてみたり、ふさいでみたりして演奏を変えようと試みますがうまくいかず、ついにはピアノを分解してしまいます。完璧に直したそうですが、母親のイーブリンはこれには辟易し、レスにピアノを習わせるようになります。9〜10歳ごろ、日本では大正末期ごろですね。
ピアノを習い始めたレス・ポールですが、基礎練習が好きではなく、すぐにやめてしまいます。その際にピアノの講師が「この子は音楽に向いていない」という手紙を書きますが、数年後にステージでピアノを弾くレス・ポールを見て「自分が間違っていた」と謝罪した、という逸話もあったりします。
さて、当時はラジオ黎明期。レス・ポールもラジオに夢中になります。当時はまだ法整備も整っておらず、多くの小さな放送局が乱立していました。今で言うと、多くの人がWebのストリーミング配信ができるようになったような感じでしょうか。地域出身のミュージシャンが多くラジオに出演していた時代です。同時に大きな放送局による全国放送も始まっています。
そんなラジオに出演したミュージシャンの1人、後のジャズギタリストエディ・ラングに魅せられたレス・ポールは、遂にギターを手にします。当時のアメリカ音楽といえばヒルビリー(カントリーの原形となる音楽)が主流で、レス・ポールもヒルビリーをプレイします。

レスはギターの練習に明け暮れ、また街角でプレイしては小遣いを稼ぐようになります。この時、少しでも遠くにギターの音を届けるため、ラジオのコイルをギターに貼り付けてスピーカーから音を出すということをやっています。後に有数のエレキギタープレイヤーとなるレス・ポールの原点の1つです。
そのうちレス・ポールは地元のラジオに出演するようになり、すぐに地域の人気パーソナリティの1人となります。この時、レスは「レッド・ホット・レッド」と名乗っていました。

その頃、レス・ポールが衝撃を受けたギタリストが現れます。セントルイスのラジオ局で主にプレイしていたウォルバートンズ・レディオ・バンドのサニー・ジョー・ウォルバートンです。当時シンプルなコード進行のヒルビリーをプレイし、「3Fより上は飾り」と思っていたレス・ポールにとって、ハイフレットを使い、ハンマリングオンやプリングオフを使うプレイを知ることになります。
その後それらのテクニックを身につけたレス・ポールはサニー・ジョーの後任としてウォルバートンズ・レディオ・バンドに加入。人生で初めて、外に出てのツアーを体験します。さらに1930年代、18〜19歳ごろにはサニー・ジョー・ウォルバートンと共にサニー・ジョー&ルバーブレッドを結成します。ルバーブレッド(Rhubarb Red)は、赤毛のレスに付けられた新たな芸名で、元になったレッドルバーブという植物は、赤いジャムを作ることもできる作物の1つです。サニー・ジョー&ルバーブレッドは、シカゴに進出します。

シカゴではジャズが芽生えようとしていました。まだマニアックなアンダーグラウンドミュージックだったジャズに惹かれたレス・ポールは、昼間はルバーブ・レッドとしてヒルビリーを、夜にはジャズギタリスト、レス・ポールとしてセッションに参加するようになります。その実力はすぐに評価され、シカゴ最高のギタリストの1人と言われるようになります。
そしてレス・ポールはジミー・アトキンス・・・あのチェット・アトキンスの兄もメンバーとなる、レス・ポール・トリオを結成。遂にニューヨークに進出します。
さて、レス・ポールのルーツとなるギタリストがもう1人います。ゲーム「Mafia」のトラックにも使われているベルギー出身のジプシー・ジャズ・ギタリストで、ギターをリード楽器として使い出した世界で最初のプレイヤーの1人、ジャンゴ・ラインハルトです。ニューヨークで彼のレコードを聴いたレス・ポールは、そのプレイを完璧にマスターし、ニューヨークのセッションでもスーパーギタリストとして頭角を現します。

また同時に、いろいろ苦労はしたようですが、レス・ポール・トリオは当時の一般的なスタイルである人気ビッグバンドの1つ、フレッド・ウォーリングのバンドに参加します。このころ多くのビッグバンド、つまり楽団のミュージシャンが住むアパートに住み、地下室では連日セッションが行われていました。
しばらく経った夏のある日、まだ空調なんて無くて当たり前の時代、汗まみれでのセッション中に、ギターとマイクを触れたレス・ポールは感電してしまいます。この事故を契機にレス・ポールはシカゴに戻り、そしてハリウッドに移ります。
ハリウッドに向かった理由は、当時のトップスターの1人、ピング・クロスビーのバックでギターを弾くためでした。
フレッド・ウォーリング・バンドのトップギタリストとしても知られていたレス・ポールは新たなトリオを組んでラジオ局と契約します。このころ、第2次世界大戦が勃発。レスも陸軍に徴兵されますが、米軍ラジオ局で世界の兵を癒すミュージシャンとして配属され、1944年には健康上の理由から除隊します。この頃、ナット・キング・コールをはじめ西海岸のジャズのプレイヤーと共にセッションを繰り返します。
そしてレス・ポール・トリオはピング・クロスビーの出演するラジオ局で、いわばリハーサルの「出待ち」をして演奏をピングに聴かせ、その心をつかみます。ピングのラジオに出演し、そしてピング・クロスビーと共に大ヒット曲It's Been A Long Long Timeiconをリリースします。終戦を迎え、帰還した兵士を歌った歌でした。

この頃、レスは自宅のガレージにスタジオを作り、数多くの試みをします。母親がウォーカシャのラジオでレスのプレイを聞いた、と電話をかけてきたのがきっかけでした。そのプレイはレスではなく、レス・ポールのスタイルを真似たギタリストだったことで、新たな独創性が必要と悟ったことがその理由です。

1948年、レス・ポールは伝説的な1枚をリリースします。A面B面合わせて2曲が収録された「The New Sound」。当時、まだ一般的でなかったマルチトラックレコーディングを行った楽曲です。多くのサウンドエンジニアが「不可能だ」と言ったほど、多トラックを高音質で実現。さらにトラックの一部はレコードの回転数を変えることで再生速度とピッチを変え、ギターではあり得ない音域を実現していました。8本のギターとベースを使い、ドラムはギターを叩いて録られたもので、すべての演奏はレス1人によるものでした。このレコードはレコードチャートのトップ10に入り一躍レス・ポールの名前を一般に知らしめました。
A面:Lover
B面・Brazil
今聴いても圧巻の独創性を感じられるプレイだと思います。マルチトラックレコーディングとして初ではありませんでしたが、マルチトラックレコーディングを広めたレコードとしては世界初の作品です。
しかし同年、レス・ポールは同乗していたアイリス・コリーン・サマーズ(後のメリー・フォード)と共に大きな自動車事故を起こし、入院してしまいます。このとき、腕を切断するかどうかの瀬戸際までいきましたが、ギタリストであることを考慮され、右腕を90°で固定するという治療を受けます。以降、レスの右腕はずっと90°で固定されることになります。

翌年、アイリス・コリーン・サマーズと結婚。レス・ポール&メリー・フォードという夫婦デュオとしてデビュー。スターダムの階段を登り始めます。
1951年には代表作、How High the Moonをリリースし、ビルボードチャートで9週連続全米1位を獲得。短時間ですが週に5日放送されるTV番組も始まり、人気は絶頂に達します。

52年にはシグネチャーモデルのGibson Les Paulが発売され、また同時期にレス・ポールの有名な発明品、世界初の8トラックレコーディングを実現したAmpex製のレコーダーも発売されます。
その間も全米1位を連発し、1953年、Vaya Con DiosがHow High the Moonに並ぶ9週連続全米1位の大ヒットを達成します。
しかし、突然、レス・ポール&メリー・フォードの売上げは急落します。ヒルビリー、カントリー、ジャズ・・・多くのジャンルを下地にした華麗なプレイで全米トップのギタリストとなり、世界ツアーも行うプレイヤーでしたが、そのころに現れた新世代のジャンル、「ロックンロール」の台頭により、スターダムの頂上から突如として懐かしいアーティストとなってしまったのです。
このことが、現在の日本におけるレス・ポールの評価にもつながっています。50年代初期にWorld Is Waiting For The Sunriseなどの楽曲で超絶プレイを披露し、またNat King Cole、Chet Atkinsをはじめ、Jeff BeckPaul McCartneyKeith Richerds・・・そうそうたるミュージシャンに影響を与えたプレイヤーでありながら、「ロック以前」のアーティストであり、また多くのジャンルを下地にした「ポップアーティスト」であることから、あるジャンルを代表するギタリストとはならなかったことも原因ではないかと思われます。日本だけでなく、アメリカでもそうだったようで、後年「レス・ポールはギターじゃなく人だったのか!」というのはよく言われたようです。
 

  • Gibsonとの関係


1951年、Gibsonでは新しい「ソリッドボディ」のギターを開発していました。このあたりの経緯についてはこちらの記事などを見ていただければと思いますが、こういった経緯を見てみると、Gibsonがその新世代のギターにレス・ポールを起用したのは当然とも言える話だと分かります。
レス・ポール自身がソリッドボディのエレキギターに関心を持っていたのは確かですが、それ以上に、当時全米1位のギタリストだったのです。ソリッドボディのエレキギター製作がより早かったFenderも、レス・ポールとの契約を模索していたという話もあります。しかし、ルバーブ・レッド時代からGibsonギターを使い、契約ギタリストの1人でもあったレス・ポールはGibsonとの契約を快諾します。そして伝説のギター、Les Paul Modelが発売されるのです。
一方、1962年にGibsonとレス・ポールの契約が切れたのも自然な話です。「Les Paulの後継であるSGの形をレス・ポールが気に入らなかった」ことが原因とされていることが多く、まぁ実際に気に入らなかったようですし、それも遠因だったのかもしれませんが、単純にレス自身の人気が落ちたこと、またその時期、レスはメリー・フォードとの離婚訴訟などを抱え、あまりに忙しかったことで契約の延長ができなかったことなどが要因でした。
Gibson社は60年代に入り、経営陣の交代などを経てギターの人気が下がっていきます。60年代後半頃、Gibsonではエレキギターから手を引き、アコースティック専門になろうという流れさえあったということです。しかし、ロック界には1つの流れがありました。Eric Claptonをはじめ、英国のギタリストがこぞって「音の太い」Les Paul Modelを使用。すでに生産完了となっていたそのギターを求めるプレイヤーが数多く存在していました。
そして当時、レス・ポールのソロライブに訪れたKeith Richerdsらの進言によりLes Paul Modelの人気を知ったレス・ポールは即座にGibsonに働きかけ、新たな契約を結びます。そして1968年にLes Paul Modelは復活。以降レス・ポールはGibsonの相談役として、多くの提案を行っていきます。
 

  • 発明家、レス・ポール

レス・ポールは、様々なエレクトロニクスの技術を持っていて、多くの発明をしていることでも知られています。どんなものを発明したのか、その一部を見てみます。

ソリッドボディのエレキギター


レス・ポールはソリッドボディのギターに興味を持っています。これはギターの音を作る際の実験で、「線路に弦を張って」音を出したことがあり、そのサウンドが非常に素晴らしかったということもあったようです。
そして作られたのが「Log」というギターです。ボディ中央部はソリッドの丸太、そこにネックを取り付け、ボディ左右にはEpiphoneのホロウボディを取り付けたものです。ホロウのボディウィングは取り外すことも可能となっており、構造としてはセミソリッドボディ、またはスルーネック構造の原形と見ることも出来るギターでした。

ヘッドレスギター


さらに、実験作としてヘッドレスのギターも製作しています。ボディのバックが開いた中空のアルミボディを持ったギターで、今でもそうそう見られない新世代素材とヘッドレスの組み合わせという超個性的なギターでした。チューナーはボディに取り付けられ、そこからチューニングを行う構造でしたが、オールアルミ構造が災いし、ステージで照明に当たるとチューニングが大きく狂ってしまうという欠点がありました。
なお、現在ヘッドレスギターの代名詞となっているSteinbergericonの創業者、ネッド・スタインバーガーは商品化の前にレス・ポールにその発想を使っても良いか確認を取ったということです。

ディレイ


現在、多くの楽曲で使用されるディレイエフェクト。その原形も、レス・ポールは発明しています。
ディレイはレコーディング技術の発展と共に進化を続けています。レス・ポールの時代、テープレコーダーが出てくるまではレコーディングはその名の通り、レコードに音を刻むものでした。レス・ポールは自作の、キャデラックのフライホイールを用いたレコードのカッティングマシーン(レコードに音を刻むための機材)を持っており、刻んだ溝のすぐ後に針を落として再生することでディレイ効果を得ていました。
後に、事故で入院中にピング・クロスビーからプレゼントされたAmpex製テープレコーダー(写真上)を改造し、再生ヘッドを追加してテープによるディレイ効果も作り出しています。参考

マルチトラックレコーダー


最も有名な発明品です。レス・ポールは「The New Sound」の頃からカッティングしたレコードを何枚も使ってマルチトラックレコーディングを実現しています。後にディレイ同様、Ampex製テープレコーダーを使ってメリー・フォードと共にマルチトラックの作品を数多くリリース。レス・ポールといえばマルチトラックと言われるほどになります。
その象徴的なものが、Ampex製の8トラックレコーダーです。レス・ポールの設計をAmpexが製品化したモデルですね。
しかし、レス・ポールはこのレコーダーの完成により、「やり直し」が簡単にできるようになったことで名作が作れなくなった、とも言っています。常に1発勝負で、失敗すれば最初からやり直しのテープによるマルチトラックレコーディングの方が、緊張感を持って名作が作れた、ということです。冗談かも知れませんけどね。

レス・ポールヴェライザー


さらにレス・ポールは、ギターに取り付けて使えるレコーダーのリモートコントロールボックス「Les Paulverizer」も製作。ギターに付けられたスイッチを操ってサウンド・オン・サウンドを自在に行っていました。

ローインピーダンスピックアップ


レス・ポールは、とにかくクリアなサウンドの追求を行っています。ギターのピックアップは古い設計のままなので、インピーダンスが高く、直接ミキサーなどに出力するのは難しいです。
そのため、よりハイファイなサウンドを作り出すため、レス・ポールはローインピーダンスピックアップを開発。出力インピーダンスを切り替えることで多くのギターアンプに対応する信号と、ラインで出力する信号を使い分けることができるモデル「Les Paul Recording」も発売されました。
ただ、すでにエレキギターのクラシックスタイルが樹立していることもあり、ロック等のジャンルに合わなかったこともあってか、販売には結びつきませんでした。本人はずっと使い続け、またそのモデルでしか作ることのできない音もあり、レコーディングの一部で使用するアーティストもいます。
 

  • 後年の評価

レス・ポールは人気が落ちてからもしばらく作品をリリースしますが、その多忙な生活に耐えられなくなったメリー・フォードと別居状態となり、遂に離婚。その訴訟を終えてからも災難は続き、Gibson社の友人がふざけて「誰だ」とした歳に鼓膜が破れてしまい、入院を余儀なくされます。その後も完治はせず、補聴器を使うようになります。
しかしレス・ポールは1975年にカーネギーホールに出演、1976年、Chet Atkinsと共にリリースしたChester & Lesterで復活。翌年のグラミー賞も獲得しています。

ところが1977年にメリー・フォードが亡くなります。離婚直後は関係も悪かったですが、この頃には友人関係となっていたようです。さらに80年ごろには、心臓のバイパス手術という大手術が必要となり、またかつての感電事故、自動車事故、鼓膜の事故、またメリー・フォードとのライブ中に骨折した小指の神経痛に悩まされるようになります。この頃のレス・ポールはすっかり弱気になっていたそうです。さすがにこれだけのことが重なれば、誰でもそうなりますね。
しかし、それでも少しずつステージに立ち続けていたレス・ポールは1982年、Jeff Beck等とともにステージに立ち、1984年にはクラブ「ファット・チューズデイ」で毎週1回のステージを開始。さらに1985年ハリウッドのロックウォークに手形を刻み、1987年にはGibson主催で72歳を祝う大規模なバースデイパーティ、1988年にはロックの殿堂入り。同年3月30日、母親のイーブリンが100歳の誕生日を迎え、この日が「レス・ポールの日」と命名。さらに同年ケーブルテレビの企画する大規模ライブイベントが開催。1991年にはレコーディング技術に貢献した人物などに送られる「レス・ポール・アワード」が発足し、レス・ポールが黄金時代に在籍したキャピトル・レコードの50周年記念パーティに出演。映画「エレキギターの生きる伝説」も公開される。96年からはクラブ「ファット・チューズデイ」の閉店にともない、クラブ「イリジウム」で毎週のギグを行うようになります。2005年には90歳を祝うステージがカーネギーホールで行われ、この年に「発明家の殿堂」にも認定。2007年には映画レス・ポールの伝説が公開。
かつてギターやレコーディングの可能性を探り、全米を代表するギタリストとして、同時にスターダムの頂上に登りつめながら、時代に翻弄され、それでも、多くの障害を乗り越えながら走り続けたレス・ポール。晩年は80年代の終わり頃から20年以上にわたり、多大な評価と賞賛の中、2009年8月13日、94歳で亡くなりました。
 
というわけで、レス・ポールという伝説のアーティストを、ぎゅっと縮めてまとめてみました。8歳の頃に聞かされた「やってみてだめだと分かるまで諦めるな」という言葉を体現し、大きな上り下りを経験したレス・ポール。
より詳しいことは、冒頭に挙げた書籍などに書かれており、楽しく読んだり見たりすることができますので、廃刊のものもありますが是非、興味を持った方は入手してみてください。レス・ポールの業績は、当たり前になったマルチトラックレコーディングやディレイ、ソリッドギター、そしてLes Paul Modelの高い人気など、今の音楽に非常に強い影響を与えています。
 
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